浅草物語

いつかの夏の終わり頃・・・

毎日のように浅草に行っていたことがある。
自転車で30分ほどかけて。

結構な距離だったけれど何も気にならなかった。
そんな何かが浅草にはあったし、
不思議な出会いがあった。

ある日の浅草、ふと立ち寄ったホッピー通りに気になる店を見つけ、自転車を止めて店長のおばさんに声をかけ、一人で風を受けながら外で飲んでいると・・・店の中の歳いった女性から声をかけられた。

「ちょいとお兄さん、あたいも一人だからさ、なんだか寂しいからさ、よかったらこっちへ来て一緒に飲まないかい?」と。

ああ、まごうことなき江戸っ子の話しっぷり。いったいどんな人が・・・と声のする方に目を向けてみると確かに寂しそうにしている痩せ細った女性がそこにいた。

「あ、はい」

と即座に返事し隣に座った。

とりとめのない会話を交わし、
飲み、食べ、店内のカラオケで歌を歌った。

帰り際、「兄さん、ありがとね」と名残惜しそうに言ってくる。
さらには「今日は本当に楽しかったわ」と。

まるでこの世で発する最後の言葉にように心細げ気に口にする。

「あたい子供いないからさ」と世間に対する言い訳のような言葉を発し、次にその罪滅ぼしのように僕の飲み代を支払ってくれ、さらに一万円のお小遣いをくれた。

「え?いやいやそんなのいいですよ」と断ってみたものの「いいからさ、とっておきなよ」と譲らない。

店のおばちゃんも「兄さん、もらっておきなよ、せっかくだからさ。それでまた飲みに来ておくれよ」と後押ししてくる。仕方が無いから渋々ながら、けれど本当はホクホクな気持ちでお札を受け取った。

その後、忙しくなってなかなか飲みに出ることが出来なくなって数週間後、約束を交わしたわけでもなかったけれど、なんとなく気になって同じ店に行ってみた。

店員のおばちゃんは相変わらずチャキチャキとしていて「いいからいいから、ほらこれ食べなよ」と何がいいのか頼んでもいないつまみを出してきて、ちゃっかりと代金を取るから苦笑しか出ない。

けれどそんな浅草だからと、何も気にせず人様の噂話をしようと「そういえば以前ここに来たときに一万円くれたおばさん、お金持ちなんですかね?」と聞いてみると・・・

「ああ、あの人ね。あの人、癌だったからさ。あのあと亡くなったよ」と何かの答え合わせになるようなことを言ってきたからぐるぐるといろいろな考えが頭の中を巡った。

別に悲しくなったりはしなかった。ほんの少し一緒に時間を過ごしただけだ。けれど、ただ一時だけでも一緒にいて、ほんの少しであったとしても、人生の最後に彼女を楽しませてあげることができたのだとしたら、それはそれで良かったとは思った。

そしてその日の酒は彼女のためにいつもより多く飲んだ。

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