あの日、目の前のおっさんは確かに笑った

いつかの冬の話。

やられた・・・と思った。
けれどまぁいいか・・・とも思った。

というも昨夜のこと。
夕飯を食べようと入った定食屋でのこと。

その店は別になんてことのない定食屋で、けれどなかなかメニューは豊富で、一人暮らしで栄養が偏りがちなおっさんとしては非常に重宝している定食屋だ。

そこで、頼んだ大根の煮付け、ニラ玉炒め、きゅうりの糠漬けをつまみにビールをひっかけ完全なる『おっさん食い』を満喫していた。いや、そんなものがこの世に存在するのかは知らないけれど。

するとひとつ向こうのテーブルにいつの間にやら知らないおっさんがこちらを向いてちょこんと座っていた。

ん?
あれ?
いたっけ?
こんなおっさん・・・。

安そうなスーツを着て、健康には無頓着に太った体。
その時にはまだ気にもらならない存在だった。

ところがおっさん、しばらくすると少々非凡な存在感を発揮し始めた。

「・・・んだよ、やってらんねぇよ、けぇ~チクショー!!」と突然、愚痴まじりの独り言を発し始めた。それも独り言じゃありえないほどの音量で。

ん、どうした?
けれどこういうのダメだ。
ダメだというか、こういうのがたまらなく好きな自分だから、突然始まったショーからすっかり目が離せなくなってしまった。

おっさんときたら、ものすごい加速度で自分の内なる世界を体外に放ち始め、どうにも止まらず絶好調になっている。

壁という壁、空気という空気、あらゆるものが彼の標的になっているように誰彼何であれ構わず四方八方、とことん怒りをぶちまけ文句を言い放っている。

どこまでも続きそうな独演会が行われているところ、それを遮るようにおっさんの机に食事が届けられた。

例え変人であったとしても食事が届けられるのが定食屋のいいところで、いつの間に注文していたのか、おっさんが今夜のディナーに選んだメニューはカキフライだった。

(カキフライ・・・か?ふーん、サクサクと揚がった冬の味覚をね、ふむふむ)とこちらはその様子を眺めながら、つまりはツマミにしながらビールを飲んでいる。

するとおっさん、そのカキフライに対し、とても愛おしそうにソースをかけ始めた。

ゆっくりと。
そしてまんべんなく。

まるでそれが食事前の儀式であるかのように、口づけを交わしそうなくらいに顔を近づけながら・・・。

そのソースのかけ方ときたら
執拗でいやらしく
ネチネチと
けれど

なんだかとてもうまそうだった。

と思った次の瞬間おっさん、今度は皿の端に盛られた洋風のカラシをお箸の先にちょこっと取り上げ、カキフライにペタペタと塗りつけ始めた。

それも丹念に丹念にムラがないようにソースと混ざりあうように・・・。

ペタペタペタ。
さらにペタペタペタと。

見ているうちにムズムズとしてきて、いつの間にやら喉の奥に唾液が溜まり始めていた。

そんなこちらの体内に起こる変化など知るよしもなくおっさん、最初のカキフライをひとつ、箸で掴みあげ、上から下から横から斜めから、舐め回すようにじっくりジロジロと、そして更にじっくりジロジロと眺めまわした後に今度はゆっくりと・・・ゆっくりとゆーっくりと、けれど人思いに人泣かせに人でなしに一気に口に放り込んだ、パクリと。

そして今度は口の中で、ゆっくりとゆっくーりとムシャリ・・・ムシャリ・・・と、これ以上ないくらいの粘っこさでその旬の味を楽しみ始めた。たぶんこの人、変態だ・・・。

けれどそんな美味しそうなカキフライとの営みを見せられたらこちらは「くはっ」となって我慢ができな・・・

と心の中で我慢の限界を告げる言葉を言い終える前に今度はおっさん、さっきとはまるで違い、ものすごい速度で二個目のフライを口に放り込んでムシャムシャムシャ・・・

と恐らく口の中にジューシーなカキ汁を溜めながら舌でかき混ぜながらその味を楽しんでいるに違いないと思ったら、ああああああああああああああ!!!!!だ、だめだ!も、もうダメだーーー!!!

となって「お、おばちゃん、カキフライひとつ!!」

とまんまとカキフライを注文させられていた。
おっさん、店の回し者か?

ああ、それにしてもやっちまった。注文しちまった・・・。
すっかりおっさんの術中にはまっている・・・。

としばらく肩を落としたあとに顔をあげると、
目線の先でおっさんが・・・

ニヤリ。

としたあと「だろ?」、

と言っているように見えたものだから・・・

やられた・・・と思った。
けれどまぁいいか・・・とも思った。

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