春樹とタルトと江戸っ子と

B!

“江戸っ子”ってすごいなと思った。

というのも先週の日曜日。

僕は三軒茶屋辺りの落ち着いた雰囲気の喫茶店でひとりコーヒーを飲みながら村上春樹を読みながら“いちごのタルト”を食べていた。

いちごタルトは僕の一番好きなスイーツだ。

それもタルトの外側を囲むクッキーのような固い部分がとても好きだ。

そもそもタルトというのは、その固い部分である彼らクッキー達が最終の防衛ラインとして肩を組んで輪を作り、必死になって踏ん張っているおかげで無理矢理に押し込まれたやんちゃで甘ったれたクリームやカスタード達が外に溢れ出さずにすんでいる。

そしてその頑固でカリカリとした食感が作り出す上等な歯ごたえが、軟弱でフニャフニャなその他の連中との間に絶妙なハーモニーを作り出しているわけで、無くてはならない存在・・・いわゆるタルト楽団における味のコンダクターだってことを忘れちゃいけない。

だから僕はもう正直言って、タルトには外側のカリカリだけがあればいいくらいに思っている。

だったらそのタルトのカリカリに似た食感を持つクッキーでも食べていればいいんじゃないの?といったご指摘を受けそうな気がするけれどそういうことではない。

たぶんそれは「トマトは好きだけどトマトジュースは嫌い」というなんだか意味のわからない、けれど何度もよく聞く好き嫌いの話や・・・

「あなたのことは好きだけど、あなたとは付き合えないの」という、やっぱりなんだかよくわからない、けれど物語の中で何度も耳にしてきた切ない言葉とどこか似ているのかもしれない。

いや、恐らく全然似てやしない。

いずれにしてもそんなタルトにまつわるエトセトラに思いを馳せていると、カウンター席で店のマスターと会話を交わしていた常連女性の声がふいに耳に飛び込んできた。

そのときまでの僕は間違いなく村上春樹に没頭していたし、周囲のどうでもいい会話なんかは耳の鼓膜を振動させる気配すらなかった。

それなのに会話を楽しみながら同時にパスタも楽しんでいたその常連女性が食後に一言・・・

「コーシーを一杯お願いね」

と「ひ」を「し」と言ってしまう江戸っ子を真似て、おどけた口調でマスターにコーヒーを注文したせいで、まるでさっきまで曇りだった空が強い風に吹かれて一気に晴れ渡ってしまったかのように、僕が置かれていた世界の様も、その言葉で一気に変わってしまい、風見鶏が絶えず風上を向いているのと同じように、僕の耳も彼女の言葉に向けてしか注意を払うことができなくなってしまった。

彼女がマスターと交わす会話は先ほどのおどけた『コーシー』をきっかけに江戸っ子の話になり、あれやこれやと話したあとに、そういえば・・・と軽い感じでつむぎ始めた言葉もやっぱり江戸っ子についての話だった。

「そういえばこないだね・・・」

普段は『このあいだ』の中に存在するはずの“の”を飛ばして『こないだ』と話し始めた時には彼女はもう「ふふっ」と自分だけが知っているほんのちょっと先にやってくる話のオチの部分を思い出しながら笑ってしまっていて・・・

ああ、きっとこの話はおもしろいに違いない、聞き逃すわけにはいかない、と僕に激しく期待を持たせてしまったから、カモフラージュ程度に開いていた春樹の本の内容がさっきよりもさらにさっぱり頭に入ってこなくなっていた。

そんなことを知るはずもなく彼女の話は続いている。

「患者さんに書いてもらう問診票があるんだけどね」

と言うからには彼女はきっと看護師かなにかなんだろうと想像しながら耳を澄ます。

「その中の『痛いところはどこですか?』という質問の欄にね」

彼女はとても楽しそうに話を続けている。

そして少女が手の中に隠していた宝物を見せようと手を開くように、彼女は一気に次の言葉を言いきった。

「“しざ”って書いてあったの、うふふ」と。

ああ、つまり“ひざ”の代わりに“しざ”と書いてあったということか、と僕はそのストーリーのエンディング部分を頭の中でゆっくりと、固いクッキーをかみ砕くように咀嚼した。

すごいなと思った。
江戸っ子ってすごいなと思った。
書く文字までが江戸っ子なんだなと思った。

そして同時に、そんな話を甘い焼き菓子のようにふんわりと披露してくれた彼女のことがとても愛しく思えた。

だから僕は忘れかけていた食べかけのタルトを一口食べた。

話したこともない誰かに突然恋してしまわないように、この思いが溢れ出してしまわないように・・・。

そして再び村上春樹を読み始めた。

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